ウォーキング / 街道歩き
関ケ原の戦いで、天下を平定した徳川家康は、1601年(慶長6年)全国支配のため江戸(日本橋)と各地を結ぶ5つの街道を整備し始めました。その中でも、東海道とともに、都である京都と、幕府のある江戸を結んだ中山道は、多くの旅人の往来と物資の流通があったと言われ、また約30の大名が参勤交代に利用しました。歩いてたどれば、今も数々の遺構や面影が残っていることに気づかれるでしょう。
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東海道の距離約492kmに対して、中山道は約534km。
距離が長く、数々の峠を越える中山道は、川の増水で足止めをくうことがあった東海道に比べ、日数が読みやすいという利点があったそう。
幕末の公武合体策による皇女和宮降嫁もこの道を通って江戸に向かいました。
京都から出発した中山道は、2つめの宿場である草津宿までは東海道と同じ道のり。本陣の先に追分道標が立ち、ここから中山道の単独ルートになっていました。以降滋賀県を北東に進み、現在の米原市の3つの宿(番場、醒井、柏原)から、国境を越えて美濃路(岐阜県)へと続きます。
東海道は53次。対して中山道は69次。69の内16の宿場があり、距離はおよそ4分の1にあたる(約128km)が美濃国、すなわち現在の岐阜県です。一路東に進む街道は、いずれ市街地を抜け、山道になり、木々や渓谷に四季折々の自然の美しさが見られるようになります。
「木曽路はすべて山の中である」から始まる、
文豪・島崎藤村の代表作である「夜明け前」の舞台、馬籠宿をはじめ、妻籠宿・奈良井宿など、往時の宿場町さながらの建物が残る木曽路は、まさに中山道のハイライト。現在の長野県は木曽から信濃へ続き、最後の宿場が軽井沢です。
江戸時代「入鉄砲に出女」とも言われ、往来を厳しく監視した関所が、街道の要所にありました。中山道の関所の一つ、碓氷の関所は信濃から碓氷峠(標高約960m)を越えた先にありました。この先は平坦な道が続き、群馬県~埼玉県~東京都の「日本橋」までが中山道の道中でした。
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